2015/03/17

いじめはリンチである。

ここではっきり言う。いじめはリンチである。喧嘩両成敗、という人がいたら、リンチは喧嘩ではない、と、反論することが必要だ。


小学校で、学年が進み、もっぱら学級で授業をするうえで、班単位で活動しはじめるようになると、次第に、グループづくりの機会が、私のつるし上げの時間となってきた。教室という劇場において わたしには、トランプでいえばババ、だれもとりたがらないメンバーの役割が永久にあてがわれた。理由はなんでもいいのだ。たまたま、彼等は私に、アイノコ、キンパツ、ガイジン、という便利なレッテルをあてがった。が、別にこれはいかなる口実でもあり得た。群れをつくる恍惚を味わうのに一番手っ取り早い手段が除け者を作ることで、私が格好の標的になったまでの話だ。

いかに私をとらないでグループを構成できるかが、毎回みんなの興奮するゲームになった。私の存在は 病原菌、腐り病がうつるもととされ 私が座る場所は、いかずの場、汚れの場になり、間違って私の持ちものや私自身に接触した子は、短期間みなにさけられエンガチョ、とののしられる。バイキンは誰か他の子を触り、うつすことで取り払われるので、急いでうつす子を見つけなければならない。次にその新しい子が駆け回り、うつしっこが続く。教師の前でも、このゲームは隠れて行われるのみだった。たまに教師が 私の周りを子が避けてゆくのを見ても、4年までの教師は大概、皆 仲良く、お友達でしょう、という嘘を宣言するか、悪くて 、見ないふりをするばかりだった。5年生、そして最高学年にはいると、問題のあるクラスを持ったことのない、昇進ルートをまっすぐ進んでいたT教師に受け持たれた。この頃になるといじめはもっと陰湿になり、ランドセルの中に無数の毛虫をいれられたり体育の着替えの時間に、特に女の子のボスたちから、いかに私がアイノコでニホンジンと生理的に違い、けがれているかと男子のまえで声高にいわれ、嘲笑された。放課後 男の子に囲まれ 逃げられないように円陣が組まれ、集団で殴られかかった。通りがかりの用務員のおばさんにその様子がみとめられ、そこからでることができた。 事件がなくとも、毎日一挙一動を監視され、帰りの子供会議、(子供の自主性の尊重という建て前のもと大体、教師はいても黙って,聞いているのみ)で毎日毎夕魔女裁判にあった。私がいかに廊下を歩くときに中央の線を何回はみだして、右側通行の決まりを守らなかったか、履いている靴の種類が いかに皆のものとは違い、おかしいか、掃除当番のときに、病原菌をもっているのに、わざと他の子の机に触れた、 ドッジボールで皆が楽しんでいるのに ボールに触って ゲームをおじゃんにした。理由はいくらでもあり、担任は、後で子供会ノートに、ひとり私が 毎日、異様な量の注意を受けたことだけをしるしたメモを受け取る。そして彼はいかに、わたしが集団の決まりを守らないか、ということだけに、着目した。その集団の決まりがいかに 生け贄の血祭りゲームのルールであろうが、教師の知ったことではなかった。


クラスは、毎日 いかに私を新しい方法で苦しめるか工夫をこらす連中の、技量比べの技演場となった。私の苦しみの反応が大きければおおきいほど、彼等の間の快感とクラスの連帯感は増加していった。 壁と呼ばれ、雑巾と呼ばれて虐められ、自殺した男の子がいたが、集団リンチの心理状態の中を、餌食として存在し、生き延びた私には、壁にならざるを得なかった、その子の気持ちが良く分かる。映画エレファントマンではないが、私も人間だ、と抵抗すればするほど 生け贄の儀式はエスカレートするからだ。いじめの儀式に積極的に参加しないものも、あえてゲームの暗黙のルールである、生け贄の黙殺と疎外をやぶるものはいなかった。
この中で、教師は、はっきり、私を諸悪の根源とみなした。私の存在こそが本来なら平安なはずの彼のクラスを乱し、彼の瑕のない教師生活までも脅かす万難の元だ、とみなした。ケンカ両成敗、という名のもとに、虐められるあなたが悪いと、私のみが矢面に立たされた。
ここで、今、虐められている子を持つ親に一言あえて、ここでいう。この、虐められるおまえも悪い、というセリフは、決してあなたの子供にいってはいけない。教室における集団いじめは、リンチであり、喧嘩ではないからである。あなたの子供のしたことしないことに全く関わりなく、存在そのものが、その教室の、ある群れをかたちづくるうえでかかせないスケープゴートとなっているからである。勿論、子供達はずる賢いから 大人がどんな理由づけをききたいか知っている。何故虐めるか、という問いに対してこじつけの理由をいくらでもいうことはできる。しかしながら 本当の理由は、誰かをひとり選び、皆で協力してそのターゲットである餌物狩りをするのは、いいようもなく、楽しいことだから、である。バラバラだったクラスが、一つの目的と意志をもった集団となってゆく恍惚と快感が、虐めの根源にあるから、あなたの子供が自分のすることの何をどう変えようが、全く関係ない。あえていえば、存在そのものが原因だから、親が、あんたも悪いというのは、いなかった方が良い、という、あの欠陥教師の論理を,裏付けることになる。繰り返していうが、いじめは、虐められる子が、何かいじめに値することをしでかして、まわりを怒らせ、おこるのではない。群れとなろうとする集団が、良き仲間どうしという感覚を作り上げるために、よそ者を選びだし、内なるもの同士で確認しあうプロセスが、いじめだ。
虐められっこはだからいじめをするもの同士の コミュニケーションの媒体という道具であり、、このとき,彼は、人ではない。少なくとも、その群れの、正メンバーとしての人ではなく、グループの形成と維持に必要不可欠な、道具としての存在になりさがる。逆に言えば,群れが成り立つためには、いじめられっこは,いなくては困るのだ。違うとされるものを 痛めつければつける程、我々、というものの実在感が高まる。いじめは、祝祭、狩猟、競技、協調、遊戯、に通じる 娯楽性と個の超越からくる恍惚をもたらす。
いじめに興じている子供達を見る機会があるものは、彼等が、一つ一つのいじめの仕種に対する虐められっこの苦しみ具合を、虐める側の間で コンテストのトロフィのように比較しあい、見せびらかすことに気が付くであろう。逆に、競争相手と観客のいないいじめは、その興奮度も低い。
先に述べた集団作文は、こんな文脈で、私を矯正するための手段として、教師があみ出したものだった。被害者である私が被告席−見せもの台−に座らされ,加害者達は、判事と検事の両方の力を絶対の権力者である教師から与えられる。存在価値を、裁かれるべきもの、としての私の立場が 教師の行動により 正当化され、確立された。しかも私への罵りが文字として残るのを許した彼は,逆に私が文で意見を表明することを,あらゆる手段を使って,阻んだ。 何か,問題があったら,口頭でのみ彼につたえよ,と前もって、クギをさされた。文字になると、誰か事情のわからないひとの手にわたり、誤解を呼ぶから,というのが彼のいい分だった。一度だけ,彼の言葉を信じて、掃除の時間に机上にゴミ箱をひっくりかえされたことを、勇気を出して告げにいった。廊下で同僚と立ち話をしている彼の話が終わるのを待っていたら、何をいつも立ち聞きしているのかと詰問された。いつもどころか、今まで一度も、彼に話にいったことはなかったが、彼は 同僚の前で私をおとしめるのに腐心して、この子は,決まってこういうことをする,と目配せをしていた。ことの内容をつげると、なぜ君は,そういう告げ口をするのだ,だから嫌われるのだ,先生のところに陰口をいう前に皆に好かれるようにせよ とおおっぴらに,彼の同僚の前で、諭された。先生に,いえ,といったではないか,と反論すると,また,かわいげの無い,嫌な子だ,といわれるのが目に見えていたから,黙って,教室に帰り,ゴミを,机の上から取り去った。

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