2015/03/13

オリバーサックスの、生き方についての言葉



君たちは、オリヴァーサックス先生を知っているかな?
脳の働き方を研究している人です。同時に、ハンディキャップがあり、変わっているとされている人たちが、いかに実は勇気あり素晴らしい人々なのかを、長い事書き続けてきた、とても素敵な人です。
ところが、不幸なことにこの先生は自分がとても重い病気にかかっていることを知らされました。
この下の文は、彼が、もうあまり長くは生きていることができない、と知った後、残る時間をどのように過ごしたいかを書いたものです。
まだ若い君たちに、どうして、この文を紹介するかって?

どうやって、人の目を気にしない、自分の本当の生き方を見つけ出すか。その質問についての、かけがえのない手がかりを、この文が与えてくれるから。ちょっと長いけれど、読んでみて。後悔はしないよ。

私自身の人生 オリヴァーサックス
訳(初稿)ユキジルバーバーグ

(自分の末期ガンを知ったオリヴァーサックス先生が、今年の2月19日にニューヨークタイムズに寄稿したものです。)

一月前までは、健康に自信があった。むしろ頑強だと思うくらいだった。81のこの年にして、まだ毎日1マイル泳いでいる。でも幸運はそうは続かない。数週間前に肝臓に大量の癌の転移があることを知ったのだ。実は9年前、目に稀な腫瘍を患ったことがある。眼のメラノーマだ。結局、腫瘍を取り除くための放射線とレーザー療法で片目の視力を失うことになる。目のメラノーマが一般的に転移する率は概ね50%といえる。それでも、私固有の状況を鑑みたところ、転移の可能性は小さいとされていた。そんななかで、わたしは貧乏くじをひいてしまったのだ。

最初の診断から9年間。この間、健康で実り多い人生を送ることができたことをありがたいと思う。そして、今、ついに死と直面することになった。癌は私の肝臓の三分の一をすでに侵食している。この種の癌は拡散を遅くすることはできても、止めることはできない。

残る何ヶ月かの時間をどう生きるか。まったく私次第だ。可能な限り豊かに、深く、実り多く生きてゆかなければならない。そんなとき、私のお気に入りの哲学者のひとり、デビッドヒュームの言葉に元気つけられる。彼は、65歳のとき、自分が病のため余命幾ばくもないことを知った。そして1776年の4月のある日、1日で、私自身の人生、という短い自伝を書きあげた。
その中でこう言っている。“私はもう長くない。それでも病からくる苦しみはほとんどない。そしてもっと不思議なことに、病状が極度に悪化しているにもかかわらず、一瞬たりとも気が滅入ることがない。 いつもどおり熱い思いで研究を続け、いつも通り朗らかに人と交わっている。”

幸運にも、私は80歳を超えるに至っている。ヒュームに与えられた65年より、15年間余計に授かったというわけだ。そしてこの間、仕事と愛情の両方において恵まれてきた。この期間、本を5冊出版し、この春には自伝(ヒュームの数枚の自伝に比べてもうちょっと長いものを)を出版する。さらに別に、完成まじかの本が数冊手元にある。
ヒュームはこう続ける −“私は、穏健で、怒りに支配されることのない気性の人間だ。 開けた精神を持ち、社交的で明るい性格を持っている。人とのつながりを作り上げることもでき、かつ喧嘩腰になることもない。 いってみれば激情に流されることのない性格だ。”

ここでヒュームと私とは大いに異なる。確かに私も彼のように愛情と友情に恵まれ、本当の意味の敵はいない。しかし私は、(そして私を知っている誰もが同意するだろうが)自分が穏健な性格とはとてもいえない。それどころか、私の性格は熱情にあふれ、激しく物事に入れ込み、自分のするすべてのことに対して、極端な情熱を注ぐ。それでいて、ヒュームの文にある次の一行の紛うことない真実に心打たれる。 
“生きる事に対して、今の私が感じるのはこの上もない距離感だ。”

ここ何日間まえから、自分の人生を、きわめて俯瞰的に、一種の風景のように見ることができるようになってきた。そしてその風景を構成する様々な部分のつながりを、深く感じ入るようになってきた。だからといって、もう生きることを諦めたわけではない。
逆に、生きていることをしみじみ堪能する。残された時間は、友情を深め、愛する者にお別れを告げ、もっと書きたいことを書き、体力の許す限り旅をし、より新しい次元の理解や洞察を獲得するためにつかいたいと、切に希望する。これを成し遂げるには、大胆、明晰、そして率直であることを必要する。世界と私との関係を精算すべき時が来たのだ。もちろん、遊び時間も作りながら、そして願わくば、ちょっぴり間の抜けた事さえをし続けながら。

にわかにフォーカスが定まり、観点が明らかになったと感じるのだ。大切なこと以外にかける時間はもうない。自分と、自分の仕事と友人達。これに焦点を合わせなければならない。もう、毎晩のニュースアワーを見ることもない。政治や、地球温暖化についての議論に関心を注ぐこともやめる。
これは、無関心ではなく、距離を置くことだ。今でも中東問題や、地球温暖化や、格差拡大は、私の心を動かす。でも、もはやこれらの論点は、私自身の手から離れた。来る世代の手に渡ったのだ。才能に溢れる若い人々との巡り合いに、 私の心はときめく。私の転移した癌を、検査し診断を下した若い人との出会いでさえも。
未来を受け継ぐ若い人たちを、頼もしいと思う。

この10年来、私と同世代の人々の死を、ますます意識するようになった。私の世代の人間は、退場しつつあるのだ。一人一人の死は、どれもみな、断絶であり、私自身の一片を引き裂くようなものだ。私たちが去ったら、私たちのような者たちはいなくなる。もちろん、だれが亡くなっても同じだ。その人は決して再び存在することはない。人は死んだら、誰かに代わってもらうことは、決してできないから。亡くなった人々は、埋め合わせることのできない穴を残してゆく。あらゆる人間は、遺伝的に、そして神経的に、絶対的にユニークな個人であるという宿命を負っているがために。そうして、ひとりひとりが自分の道を見出し、自分の人生を生き、自分の死を経験する。

恐れていない、ということはできない。でも、今何を強く感じているかというと、感謝の気持ちだ。私は、愛し、愛されてきた。多くのものを与えられ、幾ばくかのお返しもやりとげた。読み、旅し、考え、書き続けてきた。いわば、ものを書く者と読む者との間の、独特な関わり方で、世界と交わい続けてきたのだ。
そして何よりも、意識ある存在、考える動物として、この美しい惑星に存在してくることができた。このこと自体が、既にもう、とてつもない特権と冒険なのだから。



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